2014年6月19日木曜日

4.なぜ祈るのか - まずは、自分が幸せになりたいと認識する。

自分の幸せを願うことは、後ろめたい事ではない


私達は皆誰でも、幸せでいたいと常に願っています。



ここで大事なことは、「自分が幸せになりたい」と願う事は、良い事だということです。

自分勝手なことではありません。

もし、そう感じるなら、それは、

「自分の幸せは、周りの人間の負担に頼っている」

「自分の幸せは、動植物や環境を傷つける事につながる」

という考えているからかも知れません。

こっちがプラスなら、あっちがマイナス。あっちがプラスなら、こっちがマイナス。

というのが資本主義社会的な考えです。


幸せとは?


しかし、「自分の幸せ」についてよくよく考えてみると、

自分の周りの人が幸せであってこそ、私も幸せでいられるのです。

動植物が安心して生き続け、環境が機能しているからこそ、私も幸せでいられるのです。

自分の幸せには、周りの幸せが大きく関わっているのです。

これは、単なる綺麗事で言っているのではありません。

事実としてしっかり認識されるべきです。


自分の幸せとは身勝手なことなのか?


極端な例ですが、世界全体が飢餓に苦しんでいる時に、

飢え死にしそうな人間や動物達に囲まれながら、

「自分のところだけに食糧がいっぱいあって幸せ」なんて言える人はいません。

自分自身が飢え死にする不安から、周りの人と食糧を分けあう事が出来無い人でも、

「周りの人にも食糧があればいいのに」と願うはずです。

「自分が傷ついたり苦しんだりするのは嫌だ」という知識はどんな生き物でも持っています。

しかし、「他の生き物も、自分と同じように、傷ついたり苦しんだりするのを嫌がる」

という知識もしっかり持っているのが人間です。

だから、他者の痛みが見えてしまって、自分も心地悪くなるのです。

しかし、他者の痛みに対して無関心でいられる人もいます。

それは、その人が生きていくのに精一杯で、

周りに思いやりを持てる余裕の無さを表しているのです。

いくら物質的に恵まれていても、自分が恵まれている、満たされている、と認識出来るまでは、

どんな王様でも億万長者でも、生存に必死な幼子と同じ心理で生きているのです。


自分の幸せの為には、自分の幸せを願うべき


他者が幸せなのを見て、嫉妬に苛まされたり、

「自分はあんな風に幸せになれない」と落ち込んだりしてしまう。

また、他者の不幸を、不幸せな自分の慰めとして捉える心理も人間にはあります。

それらは全て、自分が幸せに満たされていない証拠です。

そのような場合に願うべきは、「自分が幸せ」であって、「他人の不幸」ではありません。

いくら他人が不幸になっても、それで気分がましになるような不幸な自分は、不幸なままです。

「自分が幸せになりたいのだ」と、しっかり認識し、願う必要があります。

自分の幸せの為には、自分の幸せを願うべきです。

自分の幸せの為に、他人の不幸を願うのはお門違いです。それは自分の幸せに貢献しません。


自分は幸せになりたいのだとしっかり認める


まずは「自分が幸せになりたい」という事実をしっかり認めたら、

自分の幸せは、周りの幸せから独立したものではない、という事実もおのずと見えてきます。

だから、全ての人間や動植物の平和の為に、心の底からすんなりと祈ることが出来るのです。


「私は息子の幸せの為に、自分を犠牲にしている。自分の幸せなんてどうでもいい」

という人がいます。

しかしそれは、息子の幸せを、幸せに思う自分があってのことです。

結局は自分が幸せになりたいから、息子の幸せを願っているのです。

人の幸せを自分の幸せと感じられる事は、素晴らしい事です。

それは、人間としての心の大きさを表しています。

そんな大きな心を持った自分にお祝いをしてあげながら、息子の幸せを祈る事が出来た時、

その人の息子に対する愛情は、

束縛、見返りの期待、それが裏切られた時の怒り悲しみ等から、少しずつ解放されます。


他への祈りが、自分の幸せを成長させる


他者の幸せを祈る事は、自分の心の大きさを広げてくれます。

世界との関わりあい方のモデルが「自分 VS(対) 周りの環境」である時、

常に周囲を操作し、戦い続け、心の平穏はなかなか見つかりません。


他者の幸せを祈るという行為は、自分の心を大きくしてくれます。

幸せを願える相手が、息子だけでなく、親戚、より広がって、地域、社会、

そして、生き物全体の幸せを祈る事の出来る人は、心の大きい人です。


幸せの成長とは


心が大きくなるとは、どのような事でしょうか。

心が大きくなると、何か自分にいいことがあるのでしょうか。

心が大きくなればなるほど、小さなことに煩わされなくなります。

小さなことに煩わされない、とはつまり、より平穏な心であり、それを幸せと呼ぶのです。


昔は、みんながもらえている風船がもらえなかった事が大事件でした。

今は、風船を作るおじさんが来ても、子供の群れに飛び込んで手を伸ばしたりしません。

もし風船が自分のところに来たら、まわりの子供にあげるでしょう。

それは、風船よりも大きな自分に成長した証拠です。

風船よりは大きくなったけど、他のものではどうでしょうか。


自分を苦しめるもの、がっかりさせるもの、怖がらせるもの、不安にさせるもの、

それらよりも、自分は大きいんだという事実に気づかせてくれるのが、

全ての人や生き物の幸せを祈る行為です。


皆の為に祈るという実用性


「人類全て」にはもちろん、自分が含まれています。

全ての人と生き物の幸せを祈る時、自分の体と心を含めるのを忘れてはなりません。

そのような祈りが、周りの幸せと自分の幸せがコンフリクト(衝突)しない心のあり方を

作ってくれるからです。


本人が気づいているかどうかに関わらず、

周りとのコンフリクトを起こす、つまり周囲に痛みを与える行動をしている人は、

常に不安で、心に平穏がありません。

なぜかと言うと、そのような行動を選択していると言う事は、

その人の心の小ささ、未熟さを表しているからです。

小さくて未熟な心は、不安と不信、不満でいっぱいです。


環境と調和して、自分の体や心も含めた全てのものに対して、

与える痛みを最小限にする努力をし、与える幸せを最大にしようとしている人の心は、

大きく、小さなことでアップ&ダウンせず、平穏です。

幸福感や満たされた感覚とは、平穏な心の中にのみ宿るのです。


祈りが自分に与える影響


祈るという行為は、その人の行動基準に影響を与えます。

行動に選択がある場合、周りとのコンフリクトがより少ない行動を選ぶようになるでしょう。

全ての幸せを祈り続けている人は、自分の選択が、

選択範囲内でベストであったと、はっきり認識できます。

それゆえに、自分の選択に対して、心の平穏があります。

また、後の結果を、グレースフル(優雅)に受け入れる準備も出来ます。


サルヴェー バヴァントゥ、、

全ての人や動植物の幸せを祈る為の、サンスクリット語のプレーヤー(祈り)があります。

「全ての人が幸せになりますように。

全ての人が病気になりませんように。

全ての人が良い物を見ますように。

いかなる人も、苦しみを持ちませんように。」


祈った後に、本当に祈りが効いたか、周りを見渡して、やっぱり状況は変わってない、

とがっかりする必要はありません。

まず、自分の心のあり方が変わるのです。

よりコンフリクトのない、より大きく、より平穏で、より幸せな心を持たせてくれます。

そんな、満たされて余裕のある心は、より客観的な考えを育ててくれます。

また、周りの幸せに貢献出来る行動を生み出してくれます。


祈りは必ず結果を生む


さらに、祈りというものは、結果を生む行為です。

どんなに微小でも、祈りという行為の結果は、何時かしら結果を必ず生むのです。

手を叩けば音が鳴るように。





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2014年6月12日木曜日

3.「祈り」に必要な客観性 ― 目的達成の為の2つの要因




どんな目的でも、それを達成しようとする時において、

目的達成には2つの要因が関わっていることを認識する必要があります。


1.自分が直接コントロール出来る範囲の要因


2.自分が直接コントロール出来無い範囲の要因



至極当たり前のように見える分類ですが、

私達は往々にして、この2つの要因において混乱しています。


自分で出来る事と出来無いことの分別がついていない。

ゆえに ― 

自分でするべき努力が出来ていないので、状況が良くならない。

人に助けを求めるべき状況なのに、助けを求められずに、苦悩を続ける。

物事は何でも、自分のやり方で、自分の思う通りに動くべきだという、

非客観的な考えに捕らわれながら、働きすぎて行動や心のバランスを崩す。

自分が全てをやり遂げたのだと信じて、思い上がる。 ― 


この2つの要因においての混乱は、客観性の欠落の表れです。

物事の達成には、様々な要因が複雑に絡み合っていて、

自分が全てをコントロール出来る訳ではない、

という事実は、客観的に認識されるべきです。


現代の日本では、デキる人間によって作られたシステムの中で、

私達の生活が機能しているので、物事の達成の要因は全て、

人間に拠るものだと感じてしまいがちです。


「○○さんに確認を取って、明日までにメールでお返事します」

という簡単な作業があったとしましょう。


それがもし出来なかった場合、いわゆる先進国、例えば日本だったら

その責任は、○○さんか私本人がどちらかにあるはず、

という様に、思考の範囲は人間たち世界の範囲内に留まっています。

そこに「不確定要因」とか「運」とか「グレース」と言った概念は見つけにくくなっています。


しかし、インドだったら。。。

○○さんどこ?ホリデー?またホリデー?今度は何のホリデー?

いつ帰ってくるか見当つきませんよね。電話してみようか。

つながらないね。きっと携帯のバランス(残高)が無いんだろうね。

じゃあ、待ってもらうようにメールしようか。ってネットつながらないし。

近所で誰かが穴掘って、電話回線つぶしたらしい。いつ復旧するのかね。

ちなみにこの前は、象が電信柱折って電話使えなくなったね。

水道もたまに同じ理由で止まるよね。

あ、復旧した?そしたら、ネットにつないで、、、って次は停電ですか。

電気と電話、いろんなものが全部揃ってないとネットに繋げないからね。

最近雨降ったり、風がきつかったりするから、停電多いね。

電気が来たら来たで、電圧高すぎて、電化製品壊れちゃうんだよね。

この前も、それでモデムが火を噴いて壊れちゃったしね。火事になったらどうすんのね。

スイッチ入れる時も、感電しないように気をつけなきゃね。

インドでは毎年多くの人が感電死してるらしい。そーとスイッチを入れながら、

「Om ナマッシヴァーヤ」っとマントラをつぶやいちゃった。

頼れない人間の代わりに神様が頑張ってくれている国、インド。

「不確定要因」「運」「グレース」「カルマの法則」といった言葉の意味を、

日常の中で、否が応でも知らしめてくれる国、インド。。。



1.自分が直接コントロール出来る範囲の要因


2.自分が直接コントロール出来無い範囲の要因


の2つを見極めて、自分で出来る範囲の要因において適切な努力をし、

直接手を打てない範囲の要因については、委ねる態度が必要です。

しかし、自分でコントロール出来ると思っていることでも、

結局は、この複雑に絡み合う様々な要因の上に成り立っているのです。


これらの複雑な要因のネットワークは、物理の法則、生理学の法則、心理学の法則、、、

全体に共通するあらゆる法則によって出来ています。

全てを包括するネットワークは1つとみなせます。

その1つのネットワークを1つの実体として認識してみましょう。

そこには全ての法則、つまり知識、資源、能力、全てがあります。

その1つの実体である「全て」の中に、

私達の「うまくいきますように」という願いを投入する行為が「祈り」です。

目標達成の為に関わる、様々な要因に、「祈り」という行為で働きかけるのです。

先に見たように、祈りは行為であるために、結果を出すからです。




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<< 2.「祈り」とは「行為」である。ゆえに必ず結果を生む。 <<

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2014年6月11日水曜日

「祈り」の国インドより




ナマステ、Medha みちかです。



祈りの文化の国インドに在住し、祈りと勉強に専念した生活を送りながら、

いままで沢山の人達にプレーヤー(祈り)を紹介してきました。

祈り方やと祈りの意味を教えること、

そして、それを通して沢山の人々の幸せに貢献出来ることは、

私の大きな喜びの一つです。


そんなことから、祈りを紹介する素敵な本を執筆したいとかねがね思っていました。

理論的に意味が通っていて、明快に理解できて、

きちんとコミュニケーション出来る文章を心がけています。

原稿を書きながら、少しずつこのブログで紹介します。

質問や感想は大いにWelcomeです。よろしくお願いします。




2014年6月8日日曜日

2.「祈り」とは「行為」である。ゆえに必ず結果を生む。

現代人にとってはビックリしてしまうような、パンチの効いたタイトルにさせてもらいましたが、

タイトルの言葉のひとつひとつは熟考に値し、適切に理解されるべきです。


まずは、「行為」について考えましょう。





1.「行為」とは


ここでいう「行為」とは、人間の自由意志を使って選択され、なされた行為を指します。


誰かに「このリンゴの皮むいといてくれる?」と頼まれた時、

A. 言われたとおりにリンゴの皮をむくことも出来るし、

B. 言うことを聞かずに何もしないという行動も選択出来るし、

C. 皮を全部むかずに、うさぎちゃんを作ることも出来ます。

いずれにしても、自由意志を使って選択した事には変りありません。


A. する事が出来る
B. しない事も出来る
C. 別のやり方でする事も出来る

のが、自由意志を使ってする行為です。


自由意志とは、私達に与えられた特権です。

権利というものは、うまく使ってこそ意味を成します。

金・銀・銅から選択できる権利を与えられているのに、

それをうまく使えず、鉄くずで甘んじているのは、あまりインテリジェントとは言えません。


快楽の欲求に駆り立てられて、自分勝手に生きている人達は、

それが自由を謳歌する方法だと信じています。

しかし、その人達は欲望の虜になっているので、

選択の権利は、動物的欲望にさえぎられていて、

人間としての自由意志はうまく使えていません。


与えられた選択肢を的確に把握し、その中から、

自分と共存している人間や動物達、社会全体、世界全体への影響を考え、

全ての生き物への最大の幸福を考えた上で

自分の行動を選択するには、自由意志を使う必要があります。


高尚な人、聖人と呼ばれる人とはつまり、

この自由意志が最大限に使えている人のことなのです。


2.「行為」は結果を生む


当たり前のことですが、何か行為をしたら、結果が生まれます。

手を叩けば、音が生まれます。

どんな些細な行動でも、些細ながらも結果が生まれます。

逆に言うと、結果が期待出来るから、行為をするのです。



3.「行為」の種類


人間のする行為には、数え切れないほど沢山の種類がありますが、

それらは手段によって、3種類に分けることが出来ます。

  1. 体を使ってする行為
  2. 言葉を使ってする行為
  3. 心を使ってする行為

「行為」や「行動」という言葉は、体を使ってするものだけだと考えられ勝ちですが、

言葉や心も、行為をする道具であり、手段です。

上で見た「行為」の定義を振り返りながら検証してみましょう。


言葉を使う時、私達は自由意志を使っています。

そして、発した言葉に対して結果が生まれます。

言葉を使う時は、意志を使って、

A. 言う事も出来る
B. 言わない事も出来る
C. 別の言い方で言う事も出来る

ということを念頭に置いて、

話すか、話さないか、どういう風に話すか、を選択している時、

その人は、自由意志を使っていると言えます。

単に「言いたくて仕方ないから喋っている」場合、

聞かされている人の立場や利益を考えられない場合などは、

その人の自由意志はうまく使われていません。


身体や言葉と同じように、心も行為をする道具、あるいは手段です。

身体や言葉でする行為のように、見えたり聞こえたりするものではないので、

少し分かりにくいかもしれませんが、例を見ながら考えてみましょう。


例えば、何を計画する時、その人は、心で行為をしています。

バラバラであいまいなアイディアが、計画と言う、心でなされた行為によって、

実行可能なはっきりしたアイディアに成った、という結果がもたらされました。

コンピューター・プログラマーは、あまり身体を使ったり言葉を発したりせず、

オフィスに座って数時間考え事をして、いいロジックやフローを考え付いたら、

つらつらと数分かけてプログラムを書く。

心を使ってする行為が、システムの完成とか、お給料といった結果を生んでいます。

暗記する、というのも心でする行為ですね。

これこれを暗記しよう、という意志が必要ですし、

頭を数分から数時間使った後、暗記できたという結果が出ます。


このように、自由意志を使ってする行為には様々なものがあります。


「祈り」もまた、自由意志を使ってする行為です。

願いや欲求を、自由意志を使って、心や身体、言葉を通して表現するのが、

「祈り」という行為なのです。


食べたり働いたりといった他の行為とは違って、

祈りという行為は、しないと生きていけない行為ではありません。

人間は祈らなくても生きていけます。

それなのにあえて祈る事を選択するというのは、

自由意志を使っているということです。


「祈り」とは行為である事、自由選択権を使ってなされる意識的行為である事は、

祈りを理解する上で、はっきりと認識されるべきです。


次に「結果」について考えます。



4.「結果に関わっているのは自分の能力だけでは無い」という客観的な事実


インドを訪れたいので、インドのヴィザを取得しなければならない。

ヴィザセンターから情報を集めて、必要書類を全部揃えて、

今日、無事に全ての書類を送付した。

自分の能力をフルに使って、やる事は全てした。

といって、必ずヴィザが降りるとは限らない。

郵送中に書類が紛失してしまうかもしれない。

ヴィザセンターが忙しくて、ヴィザの給付が渡航に間に合わないかも知れない。

職員の機嫌が悪くて却下されるかも知れない。

先進国日本では、こんな心配するなんて、あまり現実的ではないと思われるかもしれないが、

インドでは、これぐらいの事を考慮しない方が現実的ではない。

「世界はデキる人間だけで回ってるんじゃない」と毎日思い知らされる国、インド。。。


どこかに移動する時、試験を受ける時、事業を興す時、結婚する時、、、

うまく行くかどうなるか、結果を左右する要因は、自分の手の中だけではありません。

風が吹けば桶屋が儲かるように、大小さまざまな要因が複雑に絡み合っています。


自分の直接手の打てる範囲においては、きちんと手を打つ。

しかし、それだけでは望んだ結果は保証されません。

「自分の能力の及ぶ範囲だけで、世界は回っていない。

自分の能力の及ばない事象も、結果を左右している。」

という事実を、まず認めることは、客観性をもたらしてくれます。

こんな簡単な事実を認められないがゆえに、

人々はストレスにまみれたり、重圧に押し潰されたりするのです。

もしうまくいった場合でも「自分が出した結果だ」と驕り高ぶったりするのです。


5.結果を出しているのは誰か?


手を叩けば、音が出るという結果が出ます。

音が出るのか出ないのか、どのような音がでるのか、といった結果は、

手をあわせる速度、力、手の柔らかさ、湿り気、周りの空気の状態、

部屋の壁の材質、大きさ、、、様々な要因が関わっています。

このようにして出た音は、物理の法則に従って出ているのであって、

それを「自分の功績だ」というのは、思考に過ぎません。

どんなシンプルな行動の結果でも、宇宙全体に共通する

様々な法則が作用した結果なのです。

結果を出しているのは、自分独りでも、どこかに座って操作している神様でも天使でもありません。

宇宙全体をひとまとまりとして考えた時、

結果を出しているのは、そのひとまとまりの宇宙全体なのです。

このマクロ・ミクロの宇宙を動かしている能力の全てをひとまとめにして、

全能力と呼ぶことが出来ます。

この宇宙に共通し、あまねく存在している

物理の法則も、化学の法則も、生理学も、心理学も、

突き詰めると、全ては知識です。

この知識全てをひとまとめにして、全知識と呼ぶことが出来ます。


宇宙全体を把握しようとする時、

あなた自身の身体と心の全てを含めるのを忘れないでくださいね。


全能力、全知識を持っている、ひとまとまりの宇宙を、

何と呼びましょうか。


私達の知っている「神様」では物足りません。

男性である父なる神様は、女性でも母でも無いので、

全宇宙でも、全能力でも、全知識でもあり得ません。


インドで教え継がれているヴェーダという聖典は、

この「全て」である存在について知るために、私達に与えられた手段です。

ヴェーダの文化では、この「全て」に対して、

私達が認識できるように、千以上もの名前を与えています。


結果を出している一つの存在、全体という存在に対して呼び名を与えることにより、

私達がその存在を認識に、関わることが出来るのです。

願いを表現するために、その存在に働きかける行為が「祈り」なのです。


6.「祈り」は、自由意志を使ってする「行為」



欲しいのは結果です。

結果を出すために、どこまでが自分の手の打てる範囲なのか、

どこからが自分の手の及ぶ範囲でないのか、はっきり認識する必要があります。

当たり前の事のようですが、一般に私達はこの認識が出来ていません。

だからイライラしたり、落ち込んだり、苦しんだりするのです。

自分の打てる手を打ち尽くした後は、

結果を出す一つの存在、全能力と全知識を持っている一つの存在に

委ねなければなりません。

その「全て」と呼ばれる存在に対して、働きかける行為が「祈り」です。


食べたり、働いたり、歩いたり、という行為は、

もちろん自由意志を使っているのですが、

生きて行く上で、「しない事も出来る」という選択肢がいつでもあるとは言えません。


一方で、祈るという行為は、全くしなくても生きて行けるものです。

それなのにあえて祈る事を選択する時、

祈るという行為は、完全に自由意志によるものと言えます。

自由意志によって成される行動を「行為」と呼びます。

そして、行為は必ず結果を生みます。

それゆえに、祈るという行為も、必ず結果を生むのです。

祈りの結果が、何時、どの様に、どの程度で現れるかは、

私達に知り得るものではありません。

しかし、はっきり言える事は、

「祈りは行為であるゆえに、必ず結果をもたらす」という事です。

手を叩けば、音が出るように。




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<< 1.はじめに  <<


>> 3.「祈り」に必要な客観性 ― 目的達成の為の2つの要因 >>


1.はじめに 


日本で普通に生きて来て、

「祈る」という言葉を聞いた途端、すぐに出てくるのは、

「宗教的」「信仰的」「迷信的」「非現実的」「他力本願」「無力」「無責任」

といったイメージでしょう。

私もそのようなイメージを持っていました。

日本とアメリカで、SE、PG、ソフトウェア・エンジニアとして働き、

バリバリと実用主義を闊歩してきた私にとって、宗教や祈りといったものは無縁でした。


2006年にインドの聖地、リシケシを一旅行者として訪れ、

そのままインドに居つくようになって以来、

「祈る」という行為は、毎日私の生活の中にあります。


祈りが私を成長させてくれ、

また、私の祈りも成長しました。


「祈り」と共に成長してきた私の理解を、皆さんとシェアしたく、

このブログを始めました。

私の言葉が、自己と世界の理解をより明るくできますように。




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