2.「祈り」とは「行為」である。ゆえに必ず結果を生む。

現代人にとってはビックリしてしまうような、パンチの効いたタイトルにさせてもらいましたが、

タイトルの言葉のひとつひとつは熟考に値し、適切に理解されるべきです。


まずは、「行為」について考えましょう。





1.「行為」とは


ここでいう「行為」とは、人間の自由意志を使って選択され、なされた行為を指します。


誰かに「このリンゴの皮むいといてくれる?」と頼まれた時、

A. 言われたとおりにリンゴの皮をむくことも出来るし、

B. 言うことを聞かずに何もしないという行動も選択出来るし、

C. 皮を全部むかずに、うさぎちゃんを作ることも出来ます。

いずれにしても、自由意志を使って選択した事には変りありません。


A. する事が出来る
B. しない事も出来る
C. 別のやり方でする事も出来る

のが、自由意志を使ってする行為です。


自由意志とは、私達に与えられた特権です。

権利というものは、うまく使ってこそ意味を成します。

金・銀・銅から選択できる権利を与えられているのに、

それをうまく使えず、鉄くずで甘んじているのは、あまりインテリジェントとは言えません。


快楽の欲求に駆り立てられて、自分勝手に生きている人達は、

それが自由を謳歌する方法だと信じています。

しかし、その人達は欲望の虜になっているので、

選択の権利は、動物的欲望にさえぎられていて、

人間としての自由意志はうまく使えていません。


与えられた選択肢を的確に把握し、その中から、

自分と共存している人間や動物達、社会全体、世界全体への影響を考え、

全ての生き物への最大の幸福を考えた上で

自分の行動を選択するには、自由意志を使う必要があります。


高尚な人、聖人と呼ばれる人とはつまり、

この自由意志が最大限に使えている人のことなのです。


2.「行為」は結果を生む


当たり前のことですが、何か行為をしたら、結果が生まれます。

手を叩けば、音が生まれます。

どんな些細な行動でも、些細ながらも結果が生まれます。

逆に言うと、結果が期待出来るから、行為をするのです。



3.「行為」の種類


人間のする行為には、数え切れないほど沢山の種類がありますが、

それらは手段によって、3種類に分けることが出来ます。

  1. 体を使ってする行為
  2. 言葉を使ってする行為
  3. 心を使ってする行為

「行為」や「行動」という言葉は、体を使ってするものだけだと考えられ勝ちですが、

言葉や心も、行為をする道具であり、手段です。

上で見た「行為」の定義を振り返りながら検証してみましょう。


言葉を使う時、私達は自由意志を使っています。

そして、発した言葉に対して結果が生まれます。

言葉を使う時は、意志を使って、

A. 言う事も出来る
B. 言わない事も出来る
C. 別の言い方で言う事も出来る

ということを念頭に置いて、

話すか、話さないか、どういう風に話すか、を選択している時、

その人は、自由意志を使っていると言えます。

単に「言いたくて仕方ないから喋っている」場合、

聞かされている人の立場や利益を考えられない場合などは、

その人の自由意志はうまく使われていません。


身体や言葉と同じように、心も行為をする道具、あるいは手段です。

身体や言葉でする行為のように、見えたり聞こえたりするものではないので、

少し分かりにくいかもしれませんが、例を見ながら考えてみましょう。


例えば、何を計画する時、その人は、心で行為をしています。

バラバラであいまいなアイディアが、計画と言う、心でなされた行為によって、

実行可能なはっきりしたアイディアに成った、という結果がもたらされました。

コンピューター・プログラマーは、あまり身体を使ったり言葉を発したりせず、

オフィスに座って数時間考え事をして、いいロジックやフローを考え付いたら、

つらつらと数分かけてプログラムを書く。

心を使ってする行為が、システムの完成とか、お給料といった結果を生んでいます。

暗記する、というのも心でする行為ですね。

これこれを暗記しよう、という意志が必要ですし、

頭を数分から数時間使った後、暗記できたという結果が出ます。


このように、自由意志を使ってする行為には様々なものがあります。


「祈り」もまた、自由意志を使ってする行為です。

願いや欲求を、自由意志を使って、心や身体、言葉を通して表現するのが、

「祈り」という行為なのです。


食べたり働いたりといった他の行為とは違って、

祈りという行為は、しないと生きていけない行為ではありません。

人間は祈らなくても生きていけます。

それなのにあえて祈る事を選択するというのは、

自由意志を使っているということです。


「祈り」とは行為である事、自由選択権を使ってなされる意識的行為である事は、

祈りを理解する上で、はっきりと認識されるべきです。


次に「結果」について考えます。



4.「結果に関わっているのは自分の能力だけでは無い」という客観的な事実


インドを訪れたいので、インドのヴィザを取得しなければならない。

ヴィザセンターから情報を集めて、必要書類を全部揃えて、

今日、無事に全ての書類を送付した。

自分の能力をフルに使って、やる事は全てした。

といって、必ずヴィザが降りるとは限らない。

郵送中に書類が紛失してしまうかもしれない。

ヴィザセンターが忙しくて、ヴィザの給付が渡航に間に合わないかも知れない。

職員の機嫌が悪くて却下されるかも知れない。

先進国日本では、こんな心配するなんて、あまり現実的ではないと思われるかもしれないが、

インドでは、これぐらいの事を考慮しない方が現実的ではない。

「世界はデキる人間だけで回ってるんじゃない」と毎日思い知らされる国、インド。。。


どこかに移動する時、試験を受ける時、事業を興す時、結婚する時、、、

うまく行くかどうなるか、結果を左右する要因は、自分の手の中だけではありません。

風が吹けば桶屋が儲かるように、大小さまざまな要因が複雑に絡み合っています。


自分の直接手の打てる範囲においては、きちんと手を打つ。

しかし、それだけでは望んだ結果は保証されません。

「自分の能力の及ぶ範囲だけで、世界は回っていない。

自分の能力の及ばない事象も、結果を左右している。」

という事実を、まず認めることは、客観性をもたらしてくれます。

こんな簡単な事実を認められないがゆえに、

人々はストレスにまみれたり、重圧に押し潰されたりするのです。

もしうまくいった場合でも「自分が出した結果だ」と驕り高ぶったりするのです。


5.結果を出しているのは誰か?


手を叩けば、音が出るという結果が出ます。

音が出るのか出ないのか、どのような音がでるのか、といった結果は、

手をあわせる速度、力、手の柔らかさ、湿り気、周りの空気の状態、

部屋の壁の材質、大きさ、、、様々な要因が関わっています。

このようにして出た音は、物理の法則に従って出ているのであって、

それを「自分の功績だ」というのは、思考に過ぎません。

どんなシンプルな行動の結果でも、宇宙全体に共通する

様々な法則が作用した結果なのです。

結果を出しているのは、自分独りでも、どこかに座って操作している神様でも天使でもありません。

宇宙全体をひとまとまりとして考えた時、

結果を出しているのは、そのひとまとまりの宇宙全体なのです。

このマクロ・ミクロの宇宙を動かしている能力の全てをひとまとめにして、

全能力と呼ぶことが出来ます。

この宇宙に共通し、あまねく存在している

物理の法則も、化学の法則も、生理学も、心理学も、

突き詰めると、全ては知識です。

この知識全てをひとまとめにして、全知識と呼ぶことが出来ます。


宇宙全体を把握しようとする時、

あなた自身の身体と心の全てを含めるのを忘れないでくださいね。


全能力、全知識を持っている、ひとまとまりの宇宙を、

何と呼びましょうか。


私達の知っている「神様」では物足りません。

男性である父なる神様は、女性でも母でも無いので、

全宇宙でも、全能力でも、全知識でもあり得ません。


インドで教え継がれているヴェーダという聖典は、

この「全て」である存在について知るために、私達に与えられた手段です。

ヴェーダの文化では、この「全て」に対して、

私達が認識できるように、千以上もの名前を与えています。


結果を出している一つの存在、全体という存在に対して呼び名を与えることにより、

私達がその存在を認識に、関わることが出来るのです。

願いを表現するために、その存在に働きかける行為が「祈り」なのです。


6.「祈り」は、自由意志を使ってする「行為」


欲しいのは結果です。

結果を出すために、どこまでが自分の手の打てる範囲なのか、

どこからが自分の手の及ぶ範囲でないのか、はっきり認識する必要があります。

当たり前の事のようですが、一般に私達はこの認識が出来ていません。

だからイライラしたり、落ち込んだり、苦しんだりするのです。

自分の打てる手を打ち尽くした後は、

結果を出す一つの存在、全能力と全知識を持っている一つの存在に

委ねなければなりません。

その「全て」と呼ばれる存在に対して、働きかける行為が「祈り」です。


食べたり、働いたり、歩いたり、という行為は、

もちろん自由意志を使っているのですが、

生きて行く上で、「しない事も出来る」という選択肢がいつでもあるとは言えません。


一方で、祈るという行為は、全くしなくても生きて行けるものです。

それなのにあえて祈る事を選択する時、

祈るという行為は、完全に自由意志によるものと言えます。

自由意志によって成される行動を「行為」と呼びます。

そして、行為は必ず結果を生みます。

それゆえに、祈るという行為も、必ず結果を生むのです。

祈りの結果が、何時、どの様に、どの程度で現れるかは、

私達に知り得るものではありません。

しかし、はっきり言える事は、

「祈りは行為であるゆえに、必ず結果をもたらす」という事です。

手を叩けば、音が出るように。




目次へ戻る>>


<< 1.はじめに  <<


>> 3.「祈り」に必要な客観性 ― 目的達成の為の2つの要因 >>

Medha みちかのweb sites